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ゆとり教育ということが言われて久しいです。 何か勘違いしてるという気が昔からしてたんですが、みごとにその弊害があらわれているようです。 曰く、外国に比べ学力が低下した……とか、曰く、いじめ問題とか……です。 どうも、思うに『ゆとり教育』、というから話がおかしくなったんではないかと思います。 どこにゆとりを持たせればいいのかが曖昧すぎてわかんなくなりますから。 これを同じゆとりでも『ゆとり学習』って言えば、いくぶんもともとのニュアンスが伝わるかと思いませんか? そもそも、ゆとり教育ってなんでしょう? 『ゆとり』はどこに取るべきなんでしょう? たしか、詰め込みすぎの教育がとやかく言われていたから、それならっていうんで『ゆとり教育』ということが言われていたと思うんですが。(もし間違っていたらごめんなさい) そうだとしたら、学力が低下するのは当然といえばあまりに当然で(平均で学力を測るのもどうかと思いますが)今さら騒ぐことはないですよね。 教える知識の量が減れば、学んだ知識の量も減るわけです。 教師が余っているというのなら、教師一人あたりの生徒の数を減らせばいいんです。 もっとも、教師が余っているというのは俗に言う『デモ・シカ教師』が多いためではないかと思いますね。 だって、教師の質がいいのなら、こんなに問題は山積みになってないはずです。 そりゃ、中にはいい先生だっているでしょうが、こういうときはグレシャムの法則が成り立ちます。 つまり、『悪貨は良貨を駆逐する』というやつです。 この場合のゆとりは、教師に与えられるべきものではないですね。 もし、教職についていながらそう求める人は教師に向いておりません。 銃が撃ちたくて警察官や自衛官になる人と同じくらいに向いてません。 味音痴の人が料理人になってはいけないのと同じです。 教師の素養にかける人間が、教師として通用してしまう……これが根本的原因の一つではないかと思います。 何故なのかわからないんですが、成果を上げた教育をしていた教師に倣おう……とは思わずに事件の責任の追及ばかりやっているようです。 この場合責任を追及してもどうにもなりませんよね。
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